ちんちん電車の全線走破し、その後、阿倍野界隈を重点散策
第1回 ちんちん電車のたび 平成17年6月19日(日)
「ちんちん電車の全線走破し、その後、阿倍野界隈を重点散策」
阪堺電気軌道阪堺線大小路集合(9:30 受付開始 )
報道記事: 大阪日日新聞 (平成17年6月26日)
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レトロを満喫 全線走破 大小路→浜寺公園→我孫子道→天王寺(一時解散、昼食等)天王寺から恵美須町へ(昭和にトリップ) 天王寺・・・・旭町・・・・じゃんじゃん横丁・・・・通天閣・・・・恵美須町阿倍野の歴史を体感 北天下茶屋・・・・聖天山古墳・・・・松虫塚・・・・熊野街道・・・・安倍清明神社・・・・阿倍王子神社・・・・阿倍野神社・・・・帝塚山古墳※ →は電車 ・・・・は徒歩 阪堺電気軌道阪堺線 |
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9:30~ | 10:00 | |||||||
大小路交差点 堺北警察署前 |
大小路駅出発 浜寺公園へ |
阪堺電車内 | 南海線浜寺公園駅 (堺市ホームページより) |
駅舎説明 | ||||
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10:30 | |||||||||
浜寺駅前駅出発 | 天王寺駅到着 | 新開筋商店街 | 松の木大明神 | 山王交差点 | |||||
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11:00 | |||||||||
ジャンジャン横丁へ | 大阪国技館跡 | ビリケン (レプリカ) |
通天閣 | 北天下茶屋駅 | |||||
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聖天山古墳 | 聖天山 正円寺 | 松虫塚 |
熊野街道へ | 馬車鉄道跡の碑 | |||||
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安倍晴明神社 | 印山寺 《痾免寺(あめん寺)》 |
阿倍王寺神社 | 経塚 | 熊野街道 ちんちん電車交差点 |
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岸の姫松 | 阿倍野神社 | 帝塚山古墳 | |||||||
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阪堺電車 | 大阪市~浜寺村間および堺市宿院~大浜間の2路線に電気鉄道を建設する目的で設立されました。 明治44年12月に恵美須町~大小路間、同45年3月に大小路~少林寺橋(現・御陵前)間、そして同年4月に少林寺橋~浜寺(現・浜寺駅前)間が開通、阪堺線の路線が完成。 | ||||||||||
浜寺公園駅 | 明治30年代に建てられた、美しい木造の駅舎が今でも残っています。この駅舎の設計は、 後に赤レンガの東京駅を設計した辰野金吾博士によるもので、明治のハイカラ建築の粋を 集めたものです。駅舎の向かって右側にはギャラリーもあります | ||||||||||
阿倍野 | |||||||||||
旭町 |
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松乃木大明神 |
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ジャンジャン横丁 | 新世界から飛田に通じる新道が大正10年6月に開通。当初は石見町と呼ばれたが次第に小料理屋や飲み屋が軒を並べ、客寄せのため終日、三味線をジャンジャン弾き鳴らしたところからこの名が起こった。 | ||||||||||
通天閣オフィシャルページ |
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聖天さん |
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熊野街道 | 安倍晴明神社の西側を通っている熊野街道の基点は、「渡辺の津とも久品津(くぼんつ)或いは窪津」とも呼ばれる船着場で、江戸時代になると、「八軒家浜」と呼ぶようになり、三十石船や淀川の荷客輸送の要衝であった。現在天満橋南詰めの交差点の南側歩道を西に10mほどのところにある昆布処「永田屋」の店先に「八軒家船着場の跡」の顕彰碑があり、往時熊野参詣に向かう人々が上陸したのもこの辺りらしい。 この船着場のすぐ西を南に延びる道を御祓筋と呼び、この道が熊野街道の始まりと言われている。ここに上陸した人々が、熊野第一王子である窪津王子にまず参拝して御祓を受けた後、紀伊路を熊野三山まで九十九の王子を遥拝する「蟻の熊野詣で」と呼ばれる熊野参詣に出発したというのが、地元の伝承として最も有力である | ||||||||||
松虫塚 | 古書「芦分船」によると、後鳥羽上皇(1183-1198年)に仕えた松虫、鈴虫の二人の官女が法然の念仏に発心し、承元元年(1207年)法然が土佐に流されたのちに、松虫がこの地に庵を結び隠棲した所であると伝えられている。 また、「摂陽群談」と謡曲「松虫」には、「昔、ある人が親友と二人で阿倍野の松原を通ったが、その一人が節おもしろく鳴く松虫の音を慕って行ったまま帰らないので、捜しに行くと友は草むらで死んでいた」これを葬ったのが松虫塚であるとする説や、ほかにいくつかの伝説が残っている。 ときにこの松虫というには現在のコオロギのこと |
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馬車鉄道跡の碑 |
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安倍晴明神社 | 平安中期の陰陽家、安倍晴明生誕伝承地。浄瑠璃「蘆屋道萬大内鏡」で知られる。 祭神は、「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉」の古歌で有名な、葛の葉伝説にもでてくる天文博士安倍晴明です。境域は余り広くはないが、当神社は、「晴明宮御社伝書」によれば平安朝時代の寛弘4年(1007年)、第66代一条天皇の創建とされています。大正14年に現在の社殿を造営復興されました。学術、技芸の神、火難、病難災除の神、また安産の神として信仰されています。 |
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印山寺 《痾免寺(あめん寺)》 |
もとは王子神社の宮寺、本尊は薬師如来「痾免」は「阿倍野」の地名の由来。 | ||||||||||
阿倍王子神社 | 「阿倍王子権現縁起」によれば、仁徳天皇のご創建と伝えられ、また一説には、往古この地を本拠とした阿倍氏の創建ともいわれています。平安朝の時代より世をあげて熊野詣が盛んになると、熊野九十九王子社第二王子社として、阿倍野王子等と称せられ、たいへん賑っていました。その間、天長3年(826年)、疫病が流行した時、僧空海が勅命により、当神社にその鎮圧の祈祷を修したところ、疫病がやんだと伝えられています。阿倍王子神社は府下、唯一の旧地現存の王子社としても貴重な存在です。厄除開運、病気平癒等に霊験があるといわれています。 | ||||||||||
経塚 | 摂陽群談(せつようぐんだん)」に、聖徳太子が諸経の文字を、一字ずつ一石に書いて、ここに納められたとする説と、阿倍王子神社の縁起書である「阿倍権現記(あべごんげんき)」に天長3年(826年)の夏、疫病流行に際し、空海(弘法大師)が、王子神社に入り1000部の薬師経を書写し、この塚に納めたとする二つの説がある | ||||||||||
岸の五本松 | 「摂津名所図会大成」は岸の姫松のことを「街道(紀州)の東の岸の岡に一むら続きし松をいえり。いにしえの岸の松ばらの残りなりという。もっとも岸の姫松と称することは一樹にあらず、すべて住吉の岸の浜松をいうなるべし」と説明している | ||||||||||
阿倍野神社 | 祭神は南朝の忠臣、北畠顕家(きたばたけあきいえ)と父親房の両公。親房公は、吉野朝廷第ーの柱石で、京都回復の計画をすすめました。学問をよくし、その著書に有名な「神皇正統記」をはじめ「職原抄」「古今集註」等があります。 当社は顕家公が足利軍と戦った古戦場にあり、明治15年l月に阿部野神社と号して創立、同23年3月に、地鎮祭が斎行され、別格官幣社に列せられました。現在の社殿は、昭和43年に再建されたものです。 |
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帝塚山古墳 | 前方後円墳で比較的よく原形を残している。前方部が西南に向い周濠を伴ったようであるが、今はその痕跡をとどめていない。4世紀末~5世紀初築造、大伴金村(おおともかなむら)墓とする伝えがあるが不詳。 | ||||||||||
参考資料 堺市ホームページ 阿倍野区ホームページ 南海電鉄ホームページ 阪堺電気軌道株式会社のホ-ムペ-ジ 財団法人 大阪市都市建設技術協会ホームページ 新世界商店会連合協議会 |