榎歩道橋から仁徳稜、大泉公園へ

榎歩道橋
初霜坂
ここは、仁徳陵古墳の濠の水が流れ出す場所にあたります。初霜坂という名の由来は、仁徳陵の周囲に、旧暦の「二十四節気」を配置すると、ちょうどこの位置が「霜降(そうこう)」に当たるので、晩秋から初冬にかけて降りる「初霜」から名づけたものです。この欄干に彫られている和歌は、
「心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花」
で、三十六歌仙の一人である凡(おおし)河内(こうちの)躬恒(みつね)の詠んだ歌です。
1990(平成2)年には、建設省(当時)の手づくり郷土賞「ふるさと坂道30選」に選ばれています。その昔、蛍が飛び交うのどかな風景も見られたそうですが、今は残念ながら、蛍の姿も見かけることはないようです。
磐姫万葉碑
「ありつつも 君をば待たむ うち靡(なび)く わが黒髪に 霜の置くまでに」
この歌は、万葉集の中でも最も古い伝承歌だといわれています(巻二の八七)。
磐姫は、武内宿禰の子の葛城襲(そ)津(つ)彦(ひこ)の娘ですから、臣下の出身で皇后になった最初の女性ということになります。古事記や日本書紀によると、磐姫皇后は、とても嫉妬深かったそうですが、それだけ情熱的で、情愛の深い方だったのでしょう。ある時、独りになった皇后が、寂しさを隠しきれなくなって、仁徳天皇を待ちながら詠んだのがこの歌です。
<こうやって、いつづけて、あの方をお待ちしましょう。私のこの黒髪に、霜が降りたってかまいません。私は待ちつづけましょう。>





仁徳陵古墳(関連写真 1・ 関連リンク 堺市デジタル古墳百科
この古墳は、日本最大の前方後円墳で、中央の墳丘が三重の濠に囲まれています。全体の面積は、およそ47万uで、あの大きな甲子園球場が十二もはいるという広さです。エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵とともに、世界の三大墳墓とされています。 
それにしても、なぜこんなに大きなお墓を造ったのでしょう。一説によりますと、大王が威厳を誇って人々に見せるため、その大きさを競って造ったものだといいます。
この古墳は、5世紀の中頃に造られたと考えられています。ダンプカーもなければ、ベルトコンベアーもありません。そんな時代に、どんな人たちが、どれだけの時間をかけて造ったのでしょう。いまだに、謎につつまれた部分がいっぱいあるのです。
墳丘は、三段構えの土盛りで、表面は、石津川周辺でとれたという白い石でおおわれていました。石は全部で、なんと14,000トン、10トンダンプで1,400台分にもなるといいます。また、30,000個もの埴輪が並べられていました。
ある建設会社が調べたところでは、築造された頃の工法で工事をした場合、工期は15年8か月、全体の工事費は、今のお金で800億円ぐらいになるそうです。周囲を三重の濠に囲まれた前方後円墳です。三重の濠の三重目は一部明治時代に修復。日本一長大な古墳であり、宮内庁の管理になっています。                                           
【墳丘の長さ 486m 後円部の高さ  35m 前方部の幅 305m  全体の周囲 2718Km 培冢10基以上】
1872(明治5)年、前方部で竪穴式石室に収められた長持形の石棺が露出しました。この時の出土品は、すぐ埋め戻したそうですが、調査にあたった、堺県令の税所篤が記録させたという、精密な絵図が残されています。それによると、刀剣、甲冑、ガラス製の皿と壺が出土したことが分かります。また、石棺についても詳しく記録されており、このデータをもとに復元した石棺が、堺市博物館に展示されています。
江戸時代の記録によると、後円部の頂に石室があり、中に前方部のものよりひとまわり大きい石棺があるようです。この石棺も復元されています。
モズと鹿のモニュメント
昔、この辺りにはたくさんの鹿が棲んでいて、御陵を造っている人をたびたび襲ったといいます。
ある日、大王が工事の状況を見回りに来た時、目の前で、大きな鹿がばったり倒れました。そして、鹿の耳の中から、一羽のモズが飛び立ちました。驚いて鹿を調べてみると、耳の中がモズに食いちぎられていました。鹿を倒し、工事の人々を救った勇敢なモズを称え、この地を百舌鳥耳原と呼ぶようになったのです。モズは、堺市の「市の鳥」に指定されています。