けやき通りから竹之内街道へ

けやき通り
もとは北の長尾街道(奈良街道)からと南の竹内街道から、方違神社や向井神社、向泉寺などへ向かう松並木の細い参詣道でした。1932(昭和7)年11月の陸軍大演習の際、昭和天皇が、講評場になっていた府立堺中学校(現三国丘高等学校)に行幸することになったため、方違神社東の長尾街道との分岐点から天王貯水池の東側までの約600メートルを、幅9メートルの道路に整備しました。戦後、榎地区の土地区画整理後、都市計画道路今池・三国ヶ丘線として整備され、幅18メートルの広い道路になり、1965(昭和40)年3月には、街路樹としてケヤキの若木119本が植えられ、「けやき通り」と呼ばれるようになりました。
くろがねもち(関連写真・ ・ 2 )
かつての参道脇にあるくろがねもちの古木で、1973(昭和48 )年3月30日に、大阪府の天然記念物に指定されました。指定当時は、高さが12メートルもありましたが、現在は6.8メートルになっています。それでも、幹回りは3.5メートルもあり、堺市にあるくろがねもちの中で最も太い木です。
旧天王貯水池 (関連写真・ ・ 2 )
明治期、堺の水がめであったところ。レンガ造りのレトロな洋風建築が残る。
1910(明治43)年、大阪府下では大阪市についで二番目に、堺市で上水道施設が建設されたとき、計画給水人口6万人の規模の配水池として設置されたものです。
「凱旋門」風の正面入口や貯水槽の建築には、当時の最新の建材であった煉瓦を使っています。内部は中央通路の両側に、半円筒の「ヴォールト架構」になった貯水槽が並んでいます。また、外部は土を盛って直射日光をさえぎり、水質の安全をはかる工夫がされています。約50年間にわたって、堺市の水道事業の中で重要な役割を担ってきましたが、1962(昭和37)年に利用停止となりました。
国の登録有形文化財となっています。
向泉寺と閼伽井
8世紀の中頃、聖武天皇の勅願によって、行基が三国ヶ丘の地に、一寺院を建立しました。行基は閼伽井とするための泉を掘り、これに向かって多くの堂塔を建てました。寺は「三国山遍照光院」と号し、泉に面したところから、向泉寺と名づけました。また、和泉国に向かっていたので、向泉寺としたという説もあります。
この寺は、方違神社の別当寺となっており、長尾街道と竹内街道にはさまれた広大な寺域をもっていたようですが、度重なる兵火のため荒廃し、やがて環濠都市としての堺の東部に移りました。江戸時代の地図では、現在の市之町東のところに向泉寺が記されていますが、1871(明治4)年、廃寺となりました。現在、市之町東五丁に「向泉寺跡」の碑が建っています。
また、向泉寺という名のいわれとなった井戸が、方違神社の南700メートルほどの、榎元町五丁の一角に残されています。現存する井戸は、1.2メートル四方程度ですが、もとはもっと大きい円形の井戸で、閼伽井のほか、周りの神社の用水としても利用されていたといいます。江戸中期には廃井となり、その後荒廃していましたが、1967(昭和42)年、地元の協力のもとに、堺市教育委員会によって修復工事が行われました。
  西高野街道(関連写真・  )
大小路から和泉・河内を経て、河内長野市・三日市町から紀見峠を越えて高野山への参拝道として賑わった道です。
竹内街道との分岐点の少し手前に、石の道標があり、「是より高野山女人堂十三里」と刻まれています。1857(安政4)年に建てられたものです。
なお「十二里」の道標は、堺市関茶屋にあります
竹内街道
大小路を西の起点とし、仁徳陵の北を通って金岡神社から羽曳野市へ、さらに竹内峠を越えて奈良県当麻町に至る道です。
飛鳥に都がおかれていた6世紀以降、都と堺港を結ぶ道として発達し、7世紀には外交ルートとして中国文化が都へもたらされたのです。この直線部分を結ぶと、西は仁徳陵から東は応神陵に至り、この二つの巨大古墳は竹内街道の両端に位置していることになります。モズ古墳群と古市古墳群は、竹内街道を中心に東西の帯状の地域内にほとんどの古墳が収まることになります。この街道と両古墳群との関係は偶然の一致とは考えがたく、おそらくこの道は古墳の築造に携わる多くの人々や、物資の往来のための計画的に設置されたものと考えられ、我が国最初の国道といっても過言ではありません。