| 阪堺電車 |
大阪市〜浜寺村間および堺市宿院〜大浜間の2路線に電気鉄道を建設する目的で設立されました。 明治44年12月に恵美須町〜大小路間、同45年3月に大小路〜少林寺橋(現・御陵前)間、そして同年4月に少林寺橋〜浜寺(現・浜寺駅前)間が開通、阪堺線の路線が完成。 |
| 浜寺公園駅 |
明治30年代に建てられた、美しい木造の駅舎が今でも残っています。この駅舎の設計は、
後に赤レンガの東京駅を設計した辰野金吾博士によるもので、明治のハイカラ建築の粋を 集めたものです。駅舎の向かって右側にはギャラリーもあります |
| 阿倍野 |
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| 旭町 |
| 旭町通 |
上町台地の崖下に有る谷町の旧村道の通称名。
阿倍野区阿倍野筋1丁目、旧三和銀行南通が起点。「阿さひ通」の標石が有る(対照7年3月)
大正9年の大阪市街地図にみかん山と記載されている。かつてあべの橋交差点より南にかけては藪が多く、土地は西へ行くほど低くなっていた。西の低地から眺めると山から旭が輝くように見えるのでこの名がつけられたという。 |
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| 飛田(鳶田) |
阪堺線霞町停留所の南側一帯の呼称。
現在の西成区山王町から天下茶屋東にかけて江戸初期元和の市街地整理によって大阪七墓のひとつとして刑場となった。明治初年刑場は廃止。墓地は阿倍野斎場へ移された。
大正7年に飛田遊郭(大阪二大遊郭のひとつ)が開業されたが昭和33年、商店街として生まれ変わった |
てんのじ村
上方演芸発祥の地 |
四天王寺に由来する天王寺村は生国魂より天神紹鴎に及ぶ広大の地域を占めていたといわれ、現在の通称「てんのじ村」はその中央に当たる。昭和52年に建てられた全長6m余はある青石の碑。戦前から戦後にかけてこの辺りには、多くの漫才師などの演芸陣や興行師などが集まり居住し上方庶民の文化、演芸の再建飛躍の拠点となった。
記念碑は芸能の神様「秋田 実」書
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| 松乃木大明神 |
| 近松門左衛門碑 |
明治34年、第5回内国勧業博覧会の敷地となった天王寺公園内の音楽堂のあたりに建てられていた碑をこの辺りの地主であった室上小三郎の許可を受けこの地に移したという |
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| 猫塚 |
三味線の胴に張るための猫の供養に三味線業界・遊芸関係者によって建てられた
碑は三味線の胴の形をしている |
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| ジャンジャン横丁 |
新世界から飛田に通じる新道が大正10年6月に開通。当初は石見町と呼ばれたが次第に小料理屋や飲み屋が軒を並べ、客寄せのため終日、三味線をジャンジャン弾き鳴らしたところからこの名が起こった。
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通天閣
オフィシャルページ |
明治45年7月パリ・エッフェル式の高塔(75m)・凱旋門を模した台座が建築された。
昭和18年、木橋座の失火で類焼、また戦時中の鉄材供出のため解体された。
昭和31年、地元の人たちの想いの結晶・・・「二代目通天閣」誕生。(103m、総工事費3億4千万円)
通天閣の足元には堺出身の将棋棋士、阪田三吉【1925年(大正14年)、京阪神の財界有力者八十余名の主唱者により名人に推薦され、「大阪名人」を名乗る】の王将碑がある。
また、ここ通天閣周辺で大阪発がいくつか有る。
通天閣の客用エレベーター運行・最初の純喫茶がカフェパウリスタ開業(大正2年・道頓堀本店と同時開店)・日本人相手の中華料理店「広珍園」開店など、大正7年には小雪クラブ(ヤトナクラブ)が開業。 |
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| 聖天さん |
大聖歓喜天(聖天)が祀られているため、この丘は聖天山と呼ばれています。南面崖の下、表参道の西側に「慈覚大師(じかくたいし)御作大聖歓喜天(たいしょうかんぎてん)」と刻んだ石標があり、その台石は、拓榴塚の遺物、兼好法師の藁打ち石と伝えられています。
庫裏の茶室横には武野紹鴎遺愛の手水鉢が有る。現在の紹鴎の森に庵を構えており、こちらまで出向いていたという |
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| 熊野街道 |
安倍晴明神社の西側を通っている熊野街道の基点は、「渡辺の津とも久品津(くぼんつ)或いは窪津」とも呼ばれる船着場で、江戸時代になると、「八軒家浜」と呼ぶようになり、三十石船や淀川の荷客輸送の要衝であった。現在天満橋南詰めの交差点の南側歩道を西に10mほどのところにある昆布処「永田屋」の店先に「八軒家船着場の跡」の顕彰碑があり、往時熊野参詣に向かう人々が上陸したのもこの辺りらしい。 この船着場のすぐ西を南に延びる道を御祓筋と呼び、この道が熊野街道の始まりと言われている。ここに上陸した人々が、熊野第一王子である窪津王子にまず参拝して御祓を受けた後、紀伊路を熊野三山まで九十九の王子を遥拝する「蟻の熊野詣で」と呼ばれる熊野参詣に出発したというのが、地元の伝承として最も有力である
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| 松虫塚 |
古書「芦分船」によると、後鳥羽上皇(1183-1198年)に仕えた松虫、鈴虫の二人の官女が法然の念仏に発心し、承元元年(1207年)法然が土佐に流されたのちに、松虫がこの地に庵を結び隠棲した所であると伝えられている。
また、「摂陽群談」と謡曲「松虫」には、「昔、ある人が親友と二人で阿倍野の松原を通ったが、その一人が節おもしろく鳴く松虫の音を慕って行ったまま帰らないので、捜しに行くと友は草むらで死んでいた」これを葬ったのが松虫塚であるとする説や、ほかにいくつかの伝説が残っている。
ときにこの松虫というには現在のコオロギのこと
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| 馬車鉄道跡の碑 |
| 明治30年(1897)、大阪馬車鉄道株式会社が設立され、同33年に天王寺西門前から東天下茶屋間が開通した。これは軌道上の客車を馬に牽かせた鉄道で、たちまち繁盛し、二年後には下住吉まで延長された。 |
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| 安倍晴明神社 |
平安中期の陰陽家、安倍晴明生誕伝承地。浄瑠璃「蘆屋道萬大内鏡」で知られる。
祭神は、「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉」の古歌で有名な、葛の葉伝説にもでてくる天文博士安倍晴明です。境域は余り広くはないが、当神社は、「晴明宮御社伝書」によれば平安朝時代の寛弘4年(1007年)、第66代一条天皇の創建とされています。大正14年に現在の社殿を造営復興されました。学術、技芸の神、火難、病難災除の神、また安産の神として信仰されています。
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印山寺
《痾免寺(あめん寺)》 |
もとは王子神社の宮寺、本尊は薬師如来「痾免」は「阿倍野」の地名の由来。 |
| 阿倍王子神社 |
「阿倍王子権現縁起」によれば、仁徳天皇のご創建と伝えられ、また一説には、往古この地を本拠とした阿倍氏の創建ともいわれています。平安朝の時代より世をあげて熊野詣が盛んになると、熊野九十九王子社第二王子社として、阿倍野王子等と称せられ、たいへん賑っていました。その間、天長3年(826年)、疫病が流行した時、僧空海が勅命により、当神社にその鎮圧の祈祷を修したところ、疫病がやんだと伝えられています。阿倍王子神社は府下、唯一の旧地現存の王子社としても貴重な存在です。厄除開運、病気平癒等に霊験があるといわれています。 |
| 経塚 |
摂陽群談(せつようぐんだん)」に、聖徳太子が諸経の文字を、一字ずつ一石に書いて、ここに納められたとする説と、阿倍王子神社の縁起書である「阿倍権現記(あべごんげんき)」に天長3年(826年)の夏、疫病流行に際し、空海(弘法大師)が、王子神社に入り1000部の薬師経を書写し、この塚に納めたとする二つの説がある |
| 岸の五本松 |
「摂津名所図会大成」は岸の姫松のことを「街道(紀州)の東の岸の岡に一むら続きし松をいえり。いにしえの岸の松ばらの残りなりという。もっとも岸の姫松と称することは一樹にあらず、すべて住吉の岸の浜松をいうなるべし」と説明している |
| 阿倍野神社 |
祭神は南朝の忠臣、北畠顕家(きたばたけあきいえ)と父親房の両公。親房公は、吉野朝廷第ーの柱石で、京都回復の計画をすすめました。学問をよくし、その著書に有名な「神皇正統記」をはじめ「職原抄」「古今集註」等があります。 当社は顕家公が足利軍と戦った古戦場にあり、明治15年l月に阿部野神社と号して創立、同23年3月に、地鎮祭が斎行され、別格官幣社に列せられました。現在の社殿は、昭和43年に再建されたものです。 |
| 帝塚山古墳 |
前方後円墳で比較的よく原形を残している。前方部が西南に向い周濠を伴ったようであるが、今はその痕跡をとどめていない。4世紀末〜5世紀初築造、大伴金村(おおともかなむら)墓とする伝えがあるが不詳。 |
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参考資料 堺市ホームページ
阿倍野区ホームページ
南海電鉄ホームページ
阪堺電気軌道株式会社のホ−ムペ−ジ
財団法人 大阪市都市建設技術協会ホームページ
新世界商店会連合協議会 |