第2回「弥生文化の成立と“徐福”伝説」勉強会
・日 時 平成15年3月15日(土)午後1時〜5時
・場 所 大阪府立弥生文化博物館⇒池上・曽根遺跡⇒堺・四つ池遺跡⇒大鳥神社
・テーマ:「堺の弥生弥生文化の成立を遺跡に訪ねて」(見学会)
ガイド 堺観光ボランティア協会  折岡 卓氏
< 出席者 >      計 11名 (50音順、敬称略)         
 = 非会員 =       計 4名
= 堺市内 = 計 3名
有馬康郎、石原マサ子、中西美恵子
= 市外 =  計 1名
 古賀安徳(大阪)
 = 会員 =        計 7名
岡田明寛、木下平一、呉竹 正、阪本 一、瀬島正司、寺田憲二、前田秀一    
< 見学概要 >
= 大阪府立弥生文化博物館(開館1991年)= ガイド:和泉市観光ボランティア協会 
・「過去からのメッセージ」― 大阪府文化財センター設立30周年
  希望をもって新世紀を迎えたが、現実には、「文明の衝突」や「経済危機」という厳しい社会情
勢の中にある。先人たち残した歴史を振り返り、その叡智を「過去からのメッセージ」として感じ
取ることが必要ではないでしょうか。〔平成15年冬季企画展案内書より〕
・2千数百年前、九州、四国、本州で米つくりを基礎として、鉄や青銅の金属器を使った生活が始まり、社会の仕組みが変わり、人々の暮らしが豊かになった。
・やがて、富や支配権をめぐって戦いが起こり、支配する人、される人の区別ができた。そして、1740年前ごろ身分の高い人を葬るために土を盛って造った巨大な墓、つまり古墳が出現した。
・このような社会構成であった2330年前から1740年前の期間を弥生時代という
・弥生人は海を越えて、北海道や沖縄、朝鮮半島とも交流した。国際交流の幕開けであった。
・弥生時代を記録された書物といわれる『魏志倭人伝』では、弥生時代の後期に、邪馬台国が存在しその女王卑弥呼の名前が記されている。邪馬台国の所在地については、九州説(吉野ヶ里遺跡?)が有力とされてはいるが、大和説(池上・曽根遺跡?)もあるのではないか・・・。
 <邪馬台国の様子>
    ・女王・卑弥呼の館の条件:@環濠、A城柵、B物見やぐらの3要素併設されている。
    ・戦争の原因:気候不順による食糧危機対策としての食料(食糧倉庫略奪)争奪
    ・人生:30年?〔食料事情(天候対策)、寒さ(衣服が不十分)、病気(医薬品がない)など〕
    ・神(木の人形):天候祈願(まつり)
    ・銅鐸:当初は、神を呼ぶ(聞く)ための道具として小型であったが、薄い肉厚の鋳造品を造り上げる高度な技術を持ち合わせていたことは注目に値する。後世では、次第に観賞用として装飾がほどこされ、大型になり肉厚が厚くなっている。
・死に対する考え方:肉体はなくなるが、魂は存在している(副葬品から考察)
= 池上・曽根遺跡 =
・1903年ごろ池上町在住の南 繁則氏により発見された。第2阪和国道内遺跡調査による発掘調査で弥生時代の大環濠集落遺跡であることが明らかになり、1976年に遺跡(総面積60万m2と推定)の中心部約11万m2が国の史跡に指定された。
・池上・曽根遺跡における村の形成は弥生時代前期(紀元前3〜2世紀)、最も栄えたのは紀元前2〜1世紀と推定されている。
・1995年に発見された大型の建物(床面積144m2、高さ4m)と楠のくりぬき枠井戸(直径2m:樟脳の匂いがきつく、神にささげる為の防腐の水?)は復元され、弥生時代の遺跡としては最大のものと全国で話題になっている。建物の柱(ヒノキ)の1本は、年輪年代測定法により紀元前52年の伐採と判明している。
= 堺・四つ池遺跡 =
・四つ池遺跡は、縄文時代の終わり(約3000年前)に標高11m程度の段丘上とその周辺の広がる標高6〜7m程度の平野部に3ヶ所、合計4ヶ所の小さな村に分かれていたと推定されている。
・この状況は、弥生時代前期(約2400年前)まで続き、弥生時代の中期(約2000年前)になると、人々の住む場所は1ヶ所に集中し一つの大きな村となった。そして、弥生時代後期〜邪馬台国の時代(1740年前)になると、この大きな村は3つの小さな村に分散するとともに、四つ池遺跡の周辺に下田遺跡、鶴田遺跡、船尾西遺跡などいくつかの新しい村が出現することがわかっている。
・堺市立埋蔵文化財センターによる弥生時代の四つ池遺跡に存在した村の推定絵図では、環濠、城柵、物見やぐらが描かれており、卑弥呼の館の条件を踏まえている様子には大きな夢を掻き立てられた。