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『16世紀の、堺が繁栄を極めた「黄金の日々」                       
その「黄金の日々」の遺産、茶の湯の哲学が現在も堺には脈々と引き継がれている。茶、つまりCHA。
C=コミュニケーション(ふれあい)、H=ホスピタリティ(もてなし)、A=アソシエーション(仲間)である。』
この哲学を持論とされている堺市博物館角山館長をお迎えして「堺のお茶文化ともてなしの心」という題でご講演いただきました。

講演の概略


会場の大安寺は東南アジアとの交易で有名な中世の豪商呂宗助左衛門の  旧宅を移築したものといわれています。江戸初期の狩野派の作と考えられる鶴、松、藤などの絵は見事です。本堂と襖絵は国の重要文化財に指定されています。

重要文化財の襖絵
講演の概略は次のとおりです
「堺のお茶文化と“もてなし”の心」

・日時:平成15年6月21日(土)午後2時〜4時
・場所:臨済宗東福寺派 大安禅寺 
・講師:角山 榮(堺市博物館 館長)

= はじめに =
  今、堺は、社会的に注目された位置づけにある。
  例えば、全ての高校の歴史教科書で中世の項では、堺の自治、自由都市のことが記述されており、
特に、東京書籍(株)の教科書では、「堺市博物館へ行こう!」とさえ見出しに書かれていることは
注目に値する。
<“堺”繁栄の期間>
   ・1469年:遣明船、堺港に入港(応仁・文明の乱にて兵庫港入港できず)
   ・1615年:大坂夏の陣にて堺戦火焼失(堺繁栄の終わり)        
     146年〔明治維新(1868年)⇒現代(2003年)=135年〕
・150年の繁栄の内訳
   ・前半期(1469年〜1550年=81年)
     東アジア貿易
遣明船貿易:1469年〜1523年
琉球貿易: 15・中頃〜16世紀(琉球は、対明貿易を軸にハブ港的役割、毎年遣明船派遣)
   ・後半期(1550年〜1615年=65年)  
     南蛮貿易
1550年西洋からの宣教師フランシスコ・ザビエルが、琉球経由で弥次郎の案内により、布教を建前に、貿易による銀の収入を本音の目的として来堺

= 15〜16世紀 日本の世紀!― 世界の文明の中心であったアジア =
  “東アジア海域”と“東南アジア海域”とは元来一体化した経済圏として活況を呈し、物産の交易のみならず文化交流も盛んに行われた。そこえ、ヨーロッパが参入してきた。
   ・東アジア貿易圏: 中国産生糸、絹織物、陶磁器
   ・東南アジア貿易圏:香料(スパイス)、木綿
<文明は大陸伝播から海洋伝播へ変化>
14〜15世紀、元寇の敗北以後、中国の制海権が衰退し、日本人、琉球人が海洋民族として積極的にアジア海域へ進出した。
<日本の参加、堺の参加>
   1404年:日明勘合貿易、朝鮮への交易拡大
   1469年:遣明船堺港入港
   1550年:南蛮貿易(フランシスコ・ザビエル来堺)
   1635年:鎖国令(ヨーロッパ勢の侵入を防ぐ。徳川家康、貿易窓口をオランダに絞る)
 <日本に国際都市(交易拠点)誕生>
   1.国際貿易都市、町人による自治都市
    ヨーロッパとほぼ同時期、歴史上最初の「都市ブルジョワジー(商業ブルジョワジー)」台頭
     従来:労役の収奪や農産物の貢納 ⇒ 新規:商業利潤の蓄積を基礎に形成された富
                       都市有力市民の財力、経済力  例.納屋衆 10人
    @生活文化(木綿:インド)、生活革命(香料、スパイス:西アジア・イスラム教国)伝来
    A東南アジア貿易中心軸の強化(商業資本主義台頭):香料取引(中国明王朝の繁栄)
2.政治、経済、軍事戦略上重要な地位
     カネ、武器(鉄砲の生産地)、内外情報の調達基地
<アジアの「海」を変えた日本の銀>
   1.取引手段としての銀、金の供給元(“黄金のジパング”)
   2.日本の銀を目指して世界が動く時代の到来(宣教師の来日)
     銀の供給(16世紀)
       中国、ベトナム北部、日本、メキシコ
       (ヨーロッパは産出量が少なく、銀の海外持ち出し禁止)
     宣教師
       本音:金、銀獲得  建前:布教開拓

= “堺商人”の富はどこへ行ったか? =
<アジア勢力の後退>
 ●活発な自由通商海域 ⇒ 農業国化(西欧諸国の植民地化、半植民地化)
   1.中国、朝鮮の海禁政策、日本の鎖国
     ヨーロッパ勢が国内侵入を防ぐ為、最小必要交流の窓口を除き、国を閉ざす方法を選択
     結果としては、アジア的価値*1のヨーロッパ的価値*2への転換を防ぐことになった
      *1:人間関係の形成、集団の価値 → 儒教
      *2:個人主義、個人の価値 → 一神教(神と個人のつながり:キリスト教)
   2.21世紀は、ヨーロッパ的価値とアジア的価値が対立、衝突する「文明衝突」の時代
     歴史的に、16世紀の二つの価値の対立の再現
      ・ヨーロッパの近代的軍事力と無防備に近いアジア海域
 <堺の“まち”文化と商人>
1.富の蓄積に応じて、京都の公家文化と奈良の寺院文化を併せ摂取しながら、その文化を次第に堺の“まち”衆の趣味に合うものにつくり変えていった。
           例、茶の湯、連歌、能楽
2.京都の“まち”衆文化が、酒屋や土倉を主体とするに対し、堺の文化は、貿易や海運業者を中心に発達したところに規模の大きさ、異国趣味をも取り入れて市民文化の黎明を告げるに相応しい明るさを持っていた。
 <堺の「黄金日々」の衰退>
1.1704年大和川が付け替えられ、堺港が土砂で埋まり大型船舶の入港が出来なくなって貿易港としての役目を果たさなかった。反面、大坂が水の都、商人の“まち”として栄えた。
   2.堺の人たちの多くは利を追うに忙しく、向学の志がはなはだ薄く、学問で名をなす者が居なかった。堺の環濠の町は、閉鎖的で、当代最高の詩人、文人たちを温かく迎える知的環境に無く、また、文化および教育の醸成に尽すこともなく、文化の衰退とともに町も衰退した。
<堺商人の富のゆくえ>
  1.応仁・文明の乱(1468〜1486年)で荒廃した京都の復興
特に、大徳寺(1319年大燈国師創建、臨済宗大徳寺派本山)の再興に尽力
・室町幕府の保護下にあって、座禅一道に徹し枯淡の禅を護持
     ・応仁・文明の乱(1467〜1477年)で伽藍焼失
     ・一休宗純に帰依した堺商人(尾和宗臨、淡路屋寿源)が復興資金を調達、寄進
      1473年:伽藍、1479年:仏殿、1481年:正門、偏門再興
  2.寺への寄進
    ・堺の“まち”は、“金(カネ)”の力で作った自治都市
歴史上唯一の“都市ブルジョワジー”(商業ブルジョワジー)
    ・金銭的富をはじめて手にした商人たちの生き方 ⇒ 「安心立命」
      当時は、金儲けは、必ずしも“善”ではなかった ⇒ 寺への寄進
    ・堺は17世紀に、「泉南佛国」(寺の町)に変化 
      環濠の東側一帯 約300寺(寺院:225寺、その他:70箇所)
      全ての宗派があるが、本山が無く、閉鎖的な“まち”域となる。
      (昭和初期:天台宗:5、真言宗:15、浄土宗:58、禅宗:15、真宗:41、日蓮宗:28
            融通念仏宗:2、時宗:3、その他:1、  計168寺院)
      代表的なお寺と寄進した堺商人:
       ・南宗寺:臨済宗大徳寺派別格寺 武野紹鴎(たけのじょうおう)
       ・大安寺:臨済宗東福寺派    ルソン(納屋)助左衛門(居宅) 重要文化財
  3.茶の湯の文化へ全ての財産を投入  cf:角山 榮;『世界史から見た 中世・堺の茶の湯』
    ・宣教師ジョアン・ロドリゲス(ポルトガル人、1561〜1639年:1577年15歳で来日)は、日本についての30年間の研究の成果を『日本教会史』(全3巻)に著し、その第1巻に「もてなしの文化」について書き残した。
・本来の“もてなし”とは、応接、礼儀作法、料理、酒、お茶と豪華な宴会のもてなしを基本としていたが、応仁・文明の乱(1468〜1486年)、戦国時代(1490〜1570年)など、下克上の無秩序の世の中にあっては、そのような接待宴会が成立しなくなり、やむなく、その一式を凝縮した形で最後のお茶席だけを独立させ、人間不信の時代に人間相互の信頼関係の回復と新たな人間関係の形成を目指した作法が創造された。
・家の造り、造作、作法を徹底して凝縮し、主人が、客の目の前で全てを公開しながら濃い茶をたて、廻し飲み(毒物注入の嫌疑を払う儀式)をしてもてなし、信頼感の漂う人間関係の形成を目指した。その空間は、身分を離れ、主客対等で、安全が保証された聖なる空間として位置づけた。
・イエズス会の宣教師たちにとっては、奇妙な文化と見られた。
  高価な茶、茶碗、茶道具、くぐり戸、狭い部屋の堅苦しい作法・儀式
・千利休の茶の哲学:
「一期一会」:人と人の出会いを大切にして、互いに信頼ある人間関係を築く
「和敬清寂」:心をやわらげて敬う心が、涅槃の境地と一致する
以上